三内丸山遺跡は北東北の大きな縄文遺跡として有名ですが、その行き方や所要時間をまとめました。
また、その教科書に取り上げられたすごさと見どころについても、説明します。
もくじ
三内丸山遺跡への行き方は?
世界遺産登録を目指す北海道・北東北の縄文遺跡群の一つ、三内丸山遺跡は観光スポットとしても人気があります。
時々、青森市内で「三内丸山遺跡ってどうやって行くんですか?」と聞かれます。
…ええ、ちょっと行きにくい、説明しにくいところにあるんですよね…
遺跡ですから、それは市内のど真ん中にあるってわけでもありませんので…
運動公園の拡張工事をしていたら、遺跡が見つかってしまったという経緯もありますからね。
…というわけで、青森市内からの三内丸山遺跡への行き方を説明しますね。
青森県青森市の西南部に位置する三内丸山遺跡は、青森駅前から車で30分ほどかかります。
三内丸山遺跡・青森県立美術館・青森県総合運動公園はつながっているのでどれを目印にしても大丈夫!
市内の内側を通ると、迷いやすくわかりにくので…車だと7号線を西側に進み案内に従って進んでいくのがわかりやすいですよ。
バスだと、青森市営バスがあって青森市駅前や古川(青森駅から国道4号線沿いにあるターミナル)発が便利です。
それほど頻繁にある路線ではありませんので、時間の確認をしておくのが良いかと思います。
ある程度人数がいる場合でしたら、タクシーを使ったほうが速いかもしれませんね。
三内丸山遺跡での所要時間はどのくらい?体験工房やガイドも計算にいれて・・
三内丸山遺跡での設備は、次のようなものがあります。
・三内まほろばパーク縄文時遊館
・遺跡(屋外)
・ピクニック広場
三内まほろばパーク縄文時遊館では、重要文化財約500点を含む1700点の遺物が展示されています。
遺構から発掘された、縄文ポシェットとよばれる小さなかごや、細かく彫られた動物の骨からできた釣り針などがあります。
もちろん、縄文といえば縄文土器なので、割れてしまっていた縄文土器がくっつけられて展示されています。
当時の暮らしはどうだったのか、どのようなものが発掘されたのかということが一目でわかるように展示されています。
また、体験工房も併設されているのでまが玉をつくったり縄文ポシェットを作ったりすることができます。
有料ですが、体験工房は220~1080円とお手軽な値段で所要時間30分から2時間かけて縄文文化体験できる人気のコースです。
レストラン(食事に関しては11時~15時)やお土産を売っている場所もあるので、お昼にかかっても大丈夫!
小さなお子様が遊べる、木製の積み木のあるコーナーもあります。
遺跡は多くの竪穴式の住居(近くの小学生が再現したものも含む)や大型竪穴式住居(たぶん集会所だったところ)があります。
そこにみあげるほどの大きな六本柱の大型堀立柱建物跡があります。
そのほか、保存のために遺構を建物で囲っている遺跡がいくつか点在している状態です。
それらは渡されるパンフレットだけではわかりにくので、ガイドを利用したほうがわかりやすいですよ。
ショートガイドは所要時間6分、エキストラガイドは17分で無料で参加できます。
時間は決まってますがおよそ30分おきにスタートしますので、いつ行っても長く待たずに利用できます。
さて、これらをまとめると三内丸山遺跡での所要時間は…
三内まほろばパーク縄文時遊館では展示を見て30分~1時間、体験を希望するなら希望のコースの時間をプラスします。
遺跡に関しては、ガイドをいれて6分~30分あればよいのではないかと思います。
ピクニック広場は、お弁当などを持参したり小さいお子さんがいたりした場合には遊びまわれる広場ですので、天気がよければ利用するといいですね!
入場料が無料なので、私の家族は遊びがてらちょくちょく利用します。
「すんごい昔の人はこういうお家に住んでたんだってー!」「へええ!」くらいですが、楽しそうです。
小さいお子さんがいてもあまり気負わずに見てみると案外楽しいのではないのかと思います。
三内丸山遺跡の見どころ
三内丸山遺跡のすごさは、縄文時代の人々は狩猟採集で小さな集落で移動しながら暮らしていたという定説を覆したことにあります。
見どころはまさに、その根拠となった証拠や解説を聞くこと。
小さな集落で移動しながら暮らしていたと確か教科書には書いてあったという記憶の人も多いと思います。
最近の教科書には、三内丸山遺跡が載ってます。
三内丸山遺跡の調査でわかったことは、
・狩猟採集だけじゃなかった
・大きな集落である程度定住していた
ということが誰もが驚いた歴史上の大発見なんです!
栗の木栽培 品種改良をしていた!?
集落の周辺には栗の木が植えられていたのですが、栗は野生では1㎝くらいなのだそうです。ですが出土する栗はもっと大きなものです。
ですから、それを超える大きさの栗が出土しているということは、品種改良していて意図的に栗を植えていたということになります。
なんと5000年も前に品種改良ですって!
DNA分析からもこれは裏付けられているんです。…侮れませんね、縄文人。
竪穴式住居から炭化して見つかる栗があることから、栗は保存食であったことも判明しています。
しかも、大量に見つかる栗の皮は歯形がなく、きれいな切り口なのです。…つまり、ナイフのようなもので皮をむいていたと思われます。
栗だけでなく、クルミも大量に見つかっていて、主食としていたのではと言われているんですよ。
どうやら縄文時代の定説「ドングリを食べていた」はこの場所では違ったようです。
まぁ、ドングリより、栗・クルミのほうがおいしいですよね…。アク抜きもいらないし。
1500年もの間、定住していた!ヒスイ 黒曜石は交易の証拠
盛土(もりど)と呼ばれる不用品をどんどん積んでいったと思われる場所から計算すると、定住期間は約5000年前~約4000年前の1500年ほど。
それほどの長い期間、定住していたという縄文遺跡はほかにみられないのだそうです。
竪穴式住居に4~5人住んでいたと計算すると、人口は200~500人ほどだと推測され、これは縄文時代には例がないことなんです。
狩猟・採集を主にすると、周辺の食べ物とできるものを取ってしまうと移動しなければならないんですよね。
定住するには、食べ物の確保・廃棄物などの処理などさまざまな問題が浮上するんです。
さらにこの三内丸山遺跡では、新潟産のヒスイ・長野産の黒曜石なども出土していて、どうやらほかの地域と交流していたことがうかがえます。
植物調査から、現在よりも気温がすこし高く、海岸線も現在よりも山よりであったことからこの三内丸山遺跡も今よりはずっと海が近かったようです。
海岸線から陸路で、もしくは船をつかってほかの地域との交流を積極的に行っていたとすれば、まったく閉ざされた世界ではなかったことがうかがえます。
…もしかして当時は、青森三内丸山遺跡が日本の中心だったんじゃない??と思わせられます。
単位まであったかも?
中心にそびえる6本柱は、遺跡からその太さとその圧力から14.7mの高さを計算して再現されたものです。
わからないのは、その使用法と屋根などの有無です…周辺を見渡す櫓(やぐら)だったのか?それとも祭りなどにつかわれるものだったのか?
まぁ、それは思いを勝手に馳せることにして、すごいのはその6本柱の間隔なんです。
栗の木の直径は約1mで、中心から中心までの間隔は4.2m、そのほかの建物でも計測したところ、単位は35㎝か70㎝ではないかと言われます。
基準とする単位があったからこそ、大きな建物を建てることができたと考えられます。
…とすると、きちんと計算して建てていたのかも??と思えますね!
そうやって単位を使ってあらかじめ計算してから6本柱と32mにも及ぶ大型竪穴住居が作られていたのではないでしょうか?
意外とオシャレ・グルメだった?縄文ポシェット
発掘された縄文ポシェットは有名ですが、そのほかにもブレスレットや耳飾りなどもあったようです。
なかでもびっくりなのは、すでに漆塗りが存在していたこと!漆塗りのくしが出土しています。
漆の種子もあったということで、漆器やくしがこの集落で作られていたのではないでしょうか?
津軽塗の歴史は、5000年にも及ぶということかもしれませんね~。
動物の骨で作った釣り針の細工もみごとなのですが、ヘアピンなども出土しています。
こまかな模様も掘られていて、当時の人の器用さがわかります。
遺跡からは、栗やクルミのほかにサケの骨などの魚の骨が大量に出土しています。意外にも動物の骨は少なめなんですよ。
油は魚から取って、調理用や灯りに、サケの皮はアイヌ民族のように防水のブーツにしていたかもしれませんね。
アイヌ民族は、ウリ科の植物を香辛料として使用するものがあるそうで、そこから考えると縄文時代にも香辛料があったかも?
サケのソテーに、栗やクルミをそえて…マタタビで作ったお酒を一杯!なんて意外に充実した食生活だったのかもしれません。
まとめ
三内丸山遺跡は、縄文時代の定説を覆すびっくりすることがたくさんあります。
縄文へと思いを巡らせながら、遺跡を歩いてみるのもいいかもしれませんね。